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関ケ原ってどんなところ?

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東西文化、出逢いの地「関ケ原」

関ケ原町は岐阜県の西南端(美濃地方の西端)と伊吹山の南東麓にある山間のまちです。
日本のほぼ中央に位置し、古くから東西・南北の主要な街道である中山道と北国街道、伊勢街道が交わる要の地とされ、伊勢の鈴鹿関、越前の愛発関と共に京都を守る三関と呼ばれていました。
「関ケ原」という地名の由来は、「関所」のある「原っぱ」だった、という一説があります。現在の「関東」「関西」という呼び名も、“関”ケ原を境にしているからとも言われています。日本を大きく分ける呼び名に影響を与えるほど、古来の日本では、このまちを交通、物流、軍略の観点から重要視していたといえるのかもしれません。

ヒトが集まり、文化が混ざり合う場所

東国と西国の間を多くの人々が行き来する中で江戸と京都、それぞれの地の食や言葉、文化がこの地で出逢ったため、関ケ原は東西の文化の分岐点ともされています。餅の形状や、出汁の種類、稲荷寿司の形状、近江方言と岐阜方言が混ざり合った言葉など、このまちは東西の文化が混ざり合う珍しい場所でもあるのです。
現在でも西日本と東日本を繋ぐJR東海道本線、東海道新幹線や名神高速道路が通り、かの時代から移動手段こそ変われど、関ケ原は日本の交通の要所として、多くのヒト・モノ・文化の出逢いを見守り続けています。

日本の運命を決めた、古戦場のまち

このまちは、2度に渡り天下を分けた戦いの舞台となりました。

1度目は、天智天皇亡き後、672年に大海人皇子と大友皇子が皇位継承を巡って争った、日本最大の内乱「壬申の乱」
2度目は、1600年に徳川家康を討伐しようとする石田三成軍(西軍)と家康率いる東軍が雌雄を決した、かの「関ケ原の戦い」。当時の日本を二分したこの戦いにより、「関ケ原」の名は日本中に知らしめられました。
関ケ原町には町内のあちこちに二度の合戦の史跡が残されており、歴史のロマンを求めて国内外から多くのファンや観光客を集めています。

歴史を訪ねて

「このまちまるごと古戦場」、と言われるように、町内には至る所に史跡があり、観光客が地図を片手にハイキングを楽しむ姿や春や秋にはレンタサイクルで史跡巡りを楽しむ姿も多く見かけます。
歴史民俗学習館や、不破関資料館でじっくり知識を深めて頂くのもお勧めです。より詳しく関ケ原の歴史を知りたい方は、せきがはら史跡ガイドをご依頼ください。希望の時間やコースに合わせて町民のボランティアが関ケ原の名所古跡をご案内します。笹尾山交流館では甲冑武者体験もできますよ!
2020年10月には関ケ原古戦場記念館もオープンし、合戦地を一望することができます。

伊吹山に抱かれた、自然豊かなまち

自然と歴史が共存するまち、関ケ原。

関ケ原町の総面積は49.28k㎡、このうち約80%は山林が占めています。
海抜は100~200mと変化に富む地形で、名古屋などの都市部と比較すると、年間を通して気温は低めです。
冬季は伊吹おろしにより20㎝近くの降雪になる時もあります。
このまちは文化だけでなく、伊吹山、鈴鹿山脈を隔てて東西の生き物の分岐点ともなっており、ヒメアザミやイブキセリなど多くの植物に関ケ原を境に分布が見られなくなるものがあります。昆虫ではホタルの光の明滅が関ケ原を境に、西日本では2秒、東日本では3秒になるなど生物学的にも興味深い場所です。
揖斐関ケ原養老国定公園を通る東海自然歩道は整備されており、気軽にハイキングや森林浴、バードウオッチングなどで自然に楽しむことができます。
特に、滋賀県との県境を跨ぐ伊吹山では、夏には高山植物の咲き乱れるお花畑を、秋には麓から頂上までを赤く染め上げる紅葉を目当てに多くのハイキング客が訪れます。

自然を感じて

エコフィールド関ケ原

国道21号バイパスから簡単にアクセスできますが、多くの野鳥を観察することができます。お子さんの昆虫採集にも最適です。
天然記念物のモリアオガエルの生息地でもあります。

関ケ原の蕎麦

平成12年から試験的に栽培されてきた秋そばは、関ケ原の新たな名物として注目されています。町内の店舗では地元産そば粉100%の手打ちそばもお召し上がりいただだけます。
新そばの季節にはぜひ取れたてのそば粉の香りをお楽しみください。

関ケ原の観光についてもっと詳しく知りたい方は、公式サイトをご覧ください!

 

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